在这部ミュジックのこどもたち片中,【あらすじ】 女子高生のマーフは、幼い時に母を亡くし、実父と義母、そのこどもである6歳のまあやと暮らしている。しかし酒に溺れる父には乱暴に扱われ学校でも孤独な生活を送っていた。夢見がちな幼いまあやとだけはいつも一緒にいる。ある日、森に迷いこんだマーフたちは、狩猟を生業とし、森の入り口に建つ古びた一軒家に住むマサとその叔父の次郎に出会う。マサと過ごす日々に、亡くなった母親の記憶やなつかしいうたを思い出すマーフ。音楽とうたのあふれるふしぎな森から、こどもたちの新たな旅がはじまる。 【監督プロフィール】 1985年北海道生まれ。立教大学映像身体学科卒業。大学在学中に『クーラン・オプティック』が仙台短篇映画祭に入選。『帰って来た珈琲隊長』は、ぴあフィルムフェスティバル2015にて上映された。藝大で16mm短編作品『どうでもいいけど』(脚本:木村暉)、他にファンタジー短編『Alice』。 毅然と憎しみの感情を爆発させる主人公のたたずまいが美しい。憎しみが美しいというのが粋である。映画のヒロインとはこうでなければならない。家の内から外へ、あるいはその逆へ、彼女は自分の居場所を見つけようと絶え間なく移動する。まるで映画そのものが居場所を見つけ出そうとしているかのように。それにしても、ここはいったいどこだろうか。街のような森のような、この世のようなあの世のような…全ての境界線が曖昧になった一種の寓話的世界で、コミュニティの崩壊と再生が思いのほか壮大に描かれる。それと、森の中で突然行われる情事がまことにエロチックだった。 黒沢清 映画は、たとえどんなに荒唐無稽な世界であっても、それを「信じる」ように仕向けられる。その世界に綻びがないよう細心の注意が払われる。しかし、ここでは映像と映像が相互に補いながら一つの出来事をスムーズに了解させるよりむしろ、断絶し、エッジを際立たせ、世界は軋みはじめる。震えのようなその綻びには、何かのっぴきならないアンビバレンツな力学が働いており、そこに「映画」と向き合う作者の精神が現れていると思う。山間の古い家屋で世界と隔絶し、銃によって「命を頂いて」暮らし、やがて気球で好きなところへ自由に飛んで行こうとするマサたちの暮らし=孤立したユートピアが箱庭のように描かれるのであるが、地上にもはやユートピアが不可能であるとすれば、本当に空を飛んでいかなくてはならないのかもしれない。しかし、私たちは目に見えるものよりも、この軋み(音楽)こそを信じるべきなのだ。冒頭のマーフの微かな歌声が、やがて、堂々とした死者とのコーラスとして響くとき、音楽はその綻びから物語を超えて世界へ染み出すような感動的な響きを湛えている。 諏訪敦彦